EBC from PumoriEverest base camp
 2015年4月 ネパールの大地震の時に、私はエベレストのベースキャンプにいました。その時の記録です。

 上の写真はプモリのベースキャンプから望んだクーンブ氷河です。
 氷河は右下から左上に横切り、ヌプツェの山裾を巻きながら、今度は右上に上っています。この上がっている部分が、アイスフォールと呼ばれている部分です。2014年に16人のシェルパが亡くなったのは、この左側の壁から落ちた氷塊によるものです。
 更に奥を見るとエベレストの南壁が雲に煙りながら見えます。

 エベレストのベースキャンプは、氷河の左下側に、氷河に沿って細長く続いている色とりどりの帯です。ヌプツェ側からも、プモリ側からも離れて、谷の真ん中で、雪崩を避けられる位置にありました。

 その日の地震をトリガーとした雪崩は、プモリ側の壁で写真の左下の方向から起きました。あまりに大きな雪崩だったため、一度下に落ちた雪の衝撃が方向を変え、雪と岩を吹き飛ばしながら、横からベースキャンプを襲いました。

 この写真で左上にあたる上流のキャンプは、左から出っ張っている山裾の影で雪崩を遮られ、影響を受けずに済みました。そして中ほどに位置しているキャンプが大きな被害を受けました。
 私は右下の下流にあたる方に位置していたので、雪崩は来たものの既に弱まっており吹き飛ばされずに済みました。

4/25/2015 @Everest Basecamp




Tanzaniaその日は前夜から雪が降り続いて、寒い午前中だった。エベレストのベースキャンプの数百メーター上には雲が垂れ込めて、雪との境目が見えないくらい薄暗い景色となっていた。

 多くの登山者は、この天気ですることもなく、自分のテントで退屈をしていたと思う。私もテントの中で読書しながら寝転がっていた。


 すると地面がゆっくり動いているのに気づいた。テントの下はモレーンと呼ばれる砂利で、その下は分厚い氷河が流れている。
 日本の地震の揺れ方よりゆっくりで柔らかく感じた。震度は3くらいか。立っていても分かる程度だ。時計を見ると、ちょうど12時になった時だった。


 直ぐに雪崩の音が聞こえた。ベースキャンプの回りでは雪崩は日常だ。1-2時間に1回くらいの割合で起きる。雪崩が届かないところにキャンプは立てられているのだ。
 ただその時は、大きな音だったので、急いでテントを出た。

 ベースキャンプは、氷河にそって上流から下流まで二キロほどテントが続いている。今年は400人くらいの登頂許可証が出ており、登山者やシェルパも含め1,000人程度がベースキャンプにいたそうだ。
 氷河の左岸はエベレスト側で、右岸はプモリ側にあたる。雪崩の音はプモリ側の上流のほうから聞こえてきた。


 外に出て10秒もしないうちに、灰色の視界の中で、雲の底が白く煙るのが見えた。白くもくもくとした塊が大きく広がって近づいてくる。
 こんな大きな雪崩があるのか?ものすごく早い。どうするんだ、外か中か?
 テントの中に入って、やり過ごすことにした。埋まってしまっても、エアポケットが作れる。


 テントに靴のまま飛び込むと同時に、強い風と雪が吹き付けてきた。テントが飛ばされる。生地をつかんで引っ張り下げた。
 風は強いが、埋まるほどの雪じゃない。やがて勢いは30秒ほどで止んだ。



この画像はyoutubeにあったものですが、こんな感じでもくもくと吹き付けてきました。この状況だと、この方のキャンプも少し離れたところにあったようです。


 

tents倒れて埋まったテント 外に出ると、幾つかのテントが倒れていた。チームで点呼をとる。全員無事だ。殆ど怪我もない。
 我々のチームは下流の方にテントを張ったので、勢いが弱まっていたようだ。



 しばらくして、元気な我々は救護に向かった。私は日本人の医者のクライマーの方と組んで、手当てを行った。

 被害は、氷河の中流にキャンプを張ったチームに集中していた。
 100m以上も空を吹っ飛んだ人がいたそうだ。テントも荷物も飛ばされ、回りからは雪と石が巻き上げられて、体に叩きつけられていた
 頭、顔などに、深い切り傷と打撲を負った血だらけの人が多くいた。

 顔が半分散っていたり、即死の人は後に回して、けが人を臨時の大テントに運び、救護施設とした。

broken camp1吹き飛ばされたテントと備品が続いている(写真は数日後)
broken camp2大きいテントもぺしゃんこだった
broken camp4しっかりしたフレームも捩じ切れている
broken camp5テントの支柱などはひとたまりもない
panどうしたら鍋が割れるくらい強く叩きつけられるのか



 その時、我々が限られた資材の中でできることは、多くはなかった。
包帯で圧迫して血を止め、傷によっては消毒し、出血多量の人にはIBを与え、なぜか豊富にあった痛み止めを処方して、しばらくは死なないようにすることくらいだ。傷を縫うことすらできない。
 動脈が切れているような決定的な傷には、縛る位しか打ち手がない。また逆に肋骨にひびが入っているようなFatalではない怪我には、痛み止め入りの湿布で終わりだ。


temp hospital傷病者 その夜は、暖かい食事、寝袋と暖房、痛み止め、トイレの世話のために、我々の隊のメンバーで交代して番をした。手も服も血だらけになる。
 
 そのころには、カトマンズの状況も多少入ってきて、救護も長期戦になるかもと覚悟した。


 我々にとってラッキーな誤算だったのは、翌日に天気が晴れ上がると同時に、レスキューのヘリコプターが朝早くからやってきて、けが人を連れて行ってくれたことだ。
 
 頭と首から血を流していて、特に重症だったマルコが助かっていて欲しいと思う。私のところでは介護はしなかったが、日本人の男性が搬送後に無くなった知らせは残念だった。
 
 ベースキャンプからは、全部で20名くらいの死亡者と聞いている。我々の施設では一人の若いネパール人が亡くなっていた。搬送時に既に息がなかった。


その後



 雪崩で壊滅した隊は早々にベースnuptse月光のヌプツェ
キャンプから引き上げた。
 
 我々は、その後、一週間位の間、状況が落ちつくのを待ちながら、登山の可能性も探ったが、シェルパの状況や荷物のロジの目処等、難しい点が多く、登山を断念した。

 帰りのエベレスト街道やヘリからの景色でも、多くの建物が崩壊していた。
 そして壊れている建物は、載せただけの石組み、レンガの壁、古い家、貧弱な建物等、日本人の感覚では、これは地震で壊れるなというものが、壊れている印象を受けた。
 
 同じ規模の大地震は80年前に起きているようだ。
 ネパールの人々に地震にあった経験を聞いてみると、1988年に起きた地震以来、あまり経験がないようだった。
 
 1988年のネパール・インド国境の地震は、マグニチュード6.8。ネパールの死者は721名。倒壊家屋が6500棟と、異様に多い。当時も建物の耐震について問題になったそうだ。


broken wall ロブチェでは数件の家の壁が崩れていた。

フェリチェの被害家屋フェリチェの崩壊家屋。この村の中では、この家はずいぶん壊れている方だ。
クムジュンクムジュンの様子。壁に大きなひびが入っている家がある。遠くに、テントも見える。他にも大きく壊れている家があった。
ナムチェナムチェでも数件が大きく壊れているようだ。写真のロッジは屋根を改修している。
パクディンの辺りパクディンの手前で。この家はかなり古いようだ。直すのをあきらめたのだろうか
崩壊パクディンの手前で。道が一部崩壊していた。エベレスト街道では、道の崩壊はここだけだった。橋は大丈夫だった。
空からルクラからヘリに乗り、カトマンズの手前の丘陵地帯で。バラックのような家が多い。そして多くの家が壊れている。
バクタプールヘリが、被害の大きいバクタプールの方を経由して飛んでくれた。ぺしゃんこな建物がある。
バクタプール2ここもバクタプールの辺り。ここら辺は、文字通り、全滅だ。言葉もない。ひどい光景だ。ここだけで、何百人もが亡くなったんだと思う。
オスプレイカトマンズの空港では、アメリカ海兵隊がオスプレイ等のヘリで待機していた、他に中国隊とインド隊が競うように鎮座していた。
王宮カトマンズの中心部の被害は見えにくい。王宮の壁等、壁が壊れているところがいくつかある。
テント村カトマンズでも東側の公園には、テント村がある。
タメル繁華街タメルでは、少し人出が減ったようだが、あまり様子は変わらない。

 そして、建物がしっかりしてるカトマンズの街中は壊れている建物が少ないが、同時に街の外側には、壊滅的な地域もある。結果として、地震は特に貧乏な家や地域を直撃している感じだ。
 
 ネパールの政府の体質を考えると、普通に寄付をしても、その層の手には支援が届かないだろう。災害と貧困とカーストがからまって、今後は難しい復興になるだろうと思う。